子供の日のちまき、端午の節句での由来は?関西文化?
関東出身の方にとって、関西の方の多くが五月五日にちまきを食べることは驚きのようです。
ではなぜ、関東と関西でこのような差ができたのでしょうか?
また、そもそもなぜちまきや柏餅を食べるのでしょうか?調べてみました。
公家文化と武家文化
関西と関東の大きな違いはなんでしょう?歴史を振り返ってみると、京都・奈良は貴族(公家)が支配した都であり、鎌倉や江戸(東京)は武士が支配した都です。
二つの地域の文化は、この支配者の影響をそれぞれ色濃く引き継いでいるのです。
関東で柏餅を食べるのは、柏の木の特性が武士の求める理想とつながっていたことと関係があります。
柏の木は、新芽が出ない限り古い葉が落ちず、このことは「子供が生まれなければ親は死なない」という子孫繁栄を連想させました。武家にとって跡継ぎ息子を育てることはとても大切な義務ですので、このあたりから柏餅を食べ、男の子の成長を祈る行事、というイメージが作られていきました。
公家文化の関西
『端午の節句』も『粽』も字を見てわかるとおり中国からはいってきた文化です。
平安貴族の中でもとくに有名な藤原一族は、中国との貿易で財を得ていた一族です。このあたりからも、平安貴族と中国との深いかかわりが見て取れます。
菖蒲の花を飾る雅さは、平安貴族らしい文化といえるでしょう。
なんで粽?
では、中国ではなぜ『端午の節句』を行っていたのでしょうか?
じつは、この行事はある古代中国の詩人への哀悼の儀式なのです。そしてこの政治家のエピソードが、現在日本で粽を食べる儀式へとつながっているのです
古代中国に、屈原(くつげん)という詩人がいました。たぐいまれなる才能を持っていた屈原は、王の側近でしたが、陰謀により失脚してしまいます。そして、国のいく末に失望し、自らの身をはかなんだ屈原は、川へと身を投げて自害してしまいます。
屈原を慕っていた近隣の住人は、この川へと屈原への供え物を投げ込むようになりました。しかし、せっかく屈原に供え物をしようとしても、悪い竜がすべてをさらって行ってしまうのです。そこで住人は『葉でもち米を包み、五色の糸でくくった』ものをなげいれるようにしました。この葉を苦手とした龍は供え物を奪うことができなくなりました。
ファンタジックなお話ですが、どうでしょう。このお供え物、粽と似ていませんか?
これが粽の原型だそうです。